ロンドン五輪ミドル級金メダリスト&プロWBA世界ミドル級チャンピオン村田諒太を応援する会

プロボクサー村田諒太に迫る

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プロの頂点

5歳から水泳に親しみ、奈良市立伏見中学校では陸上部に所属。
1500メートル走で奈良市大会4位の成績を残すが長続きしなかった。
担任であった北出忠徳先生の、「お前、何かやりたいことはないんか?」との問いに、
村田が「ボクシングやったら、やるわ」と答えたことが、ボクシングを始めるきっかけとなった。
北出先生の手配で、その週末には地元奈良工業高等学校(現奈良県立奈良朱雀高等学校)の
ボクシング部(当時の主将は名城信男)が主催する週末ボクシング教室に通いはじめる。
ロサンゼルスオリンピック日本代表で同校ボクシング部監督の高見公明によれば、
当初から陸上競技仕込みのスピードがあったが、パワーは後の練習で身についたものだという。
しかし、練習が辛かったことで、わずか2週間ほどで行くのをやめてしまう。
その後、再び奈良工業高等学校のボクシング練習に顔を出すようになるが、
2ヶ月ほどで足首を負傷してしまい、それ以降、二度と練習に顔を出すことは無くなる。
中学校3年生から大阪の進光ボクシングジムでトレーニングを始める。
南京都高等学校に進学、高校初戦は黒星スタートであったが徐々に頭角を現し、

高校2年時で選抜・総体・国体の高校3冠を達成。

また3年時でも選抜と総体を制して高校5冠を達成し、

最後の国体で粟生隆寛に次ぐ史上2人目の高校6冠の達成がかかっていたが、

2府4県が団体戦により3枠を争う国体近畿予選で村田自身はミドル級で優勝するも

京都チームが団体戦4位に留まり(大阪・兵庫・奈良が全国に進出)、国体出場を逃す。

国体に出られなくなった代わりに全日本選手権に参戦するも、

決勝で佐藤幸治に1回RSC負けに終わる。

卒業後は東洋大学経営学部経営学科へ進学しボクシング部に所属。

2004年に全日本選手権初優勝。

2005年にはキングスカップに出場

前年のアテネオリンピックミドル級銅メダリストでムエタイで魔裟斗に勝ったこともある

スリヤー・ソー・プルンチットに判定で敗れ、銀メダルを獲得。

同年、ホーチミン市で開催されたアジア選手権に

ミドル級(75kg)で出場し銅メダルを獲得。

同年、中華人民共和国の綿陽市で開催された

2005年世界ボクシング選手権大会にミドル級(75kg)で出場するが1回戦で敗退した。

2006年にはドーハアジア大会代表に選ばれるが1回戦でアテネオリンピック、

ウェルター級金メダリストのバクシャー・アルタエルに5-24で敗退する。

アルタエフとは半年後のキングスカップで再戦するが再び敗退した。

2007年には世界選手権にミドル級(75kg)で出場するも

2回戦でショーン・エストラーダに敗退した。

同年の全日本選手権では2度目の優勝を収めたが、

2008年1月のオリンピック・アジア1次予選で準決勝敗退、3月のオリンピック・アジア2次予選でも初戦敗退して

北京オリンピックの出場権を獲得できなかったことで現役生活からの引退を決めた。

2008年3月に東洋大学を卒業。

学校法人東洋大学に就職し大学職員 兼 ボクシング部コーチとして勤務。

2009年、2月に起きた東洋大学ボクシング部元部員の不祥事をきっかけに1年半ぶりの現役復帰を決意。

2009年から2011年にかけて全日本選手権で3連覇を果たす。

2010年、カザフスタン大統領杯にミドル級(75kg)で出場するが2回戦敗退。

2011年7月のインドネシア大統領杯にミドル級(75kg)で出場し初の国際大会優勝。

2011年8月、アジア選手権で2回戦敗退。

同年10月の世界選手権にミドル級(75kg)で出場、

過去にこの大会のライトヘビー級・ミドル級で金メダリストとなった

アボス・アトエフ(ウズベキスタン)と2回戦で対戦。

3回にアトエフから2度のスタンディングダウンを奪い、3回RSC勝ちを収めた。

4回戦に勝利してロンドンオリンピック出場権を獲得した後、準決勝でエスキバ・ファルカオを破り、

日本人として初めて決勝に進出したが、イエフゲン・フイトロフ(ウクライナ)に

22-24の僅差判定負けを喫して銀メダル獲得となった。

しかし、同選手権での銀メダル獲得は日本人最高成績であり、メダリストは石井幸喜、川内将嗣に次いで3人目で
あった。

英国のボクシング専門誌『ボクシング・マンスリー』7月号は、

ロンドンオリンピックにおける各階級最大の脅威を紹介する記事の中で、

英国にとって「ミドル級最大の強敵は日本の村田」と評価した。

この後、試合をこなしながら調整した方がいいと思う気持ちもあり、

全日本選手権には出場し、優勝したが、「手の内を明かしたくない」と考えて国際試合からは離れた。

2012年5月にはワタナベジムへの出稽古で元日本・東洋太平洋スーパーウェルター級王者の柴田明雄とスパーリングをし、

高校3年時から交流がある同ジム所属の現役世界王者・内山高志から左ボディー打ちをアドバイスされた。

また、7月には帝拳ジムで日本スーパーミドル級1位の三浦広光とスパーリングをし、南京都高の先輩で同ジム所属の現役世界王者・山中慎介から激励を受けた。

※一部Associeのインタビュー記事より引用
※その他wiki等より抜粋

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新・世界チャンピオン誕生!因縁の再戦で見せた“覚悟”と、胸の内に秘め続けて来た“苦悩と葛藤”に密着!!

村田諒太情熱大陸

NHKにて、放送されました!

父子で掴んだ、世界王座!

村田諒太・特設!プライベートインタビュー

後援会パーティーの翌日、奈良ジムに遊びに来た村田諒太選手

村田諒太選手へのプライベートインタビュー

日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 2013年8月24日 2R 2:24 TKO 柴田明雄(ワタナベ) 日本 プロデビュー戦
2 2013年12月6日 8R 1:20 TKO デイブ・ピーターソン アメリカ合衆国
3 2014年2月22日 4R 0:43 TKO カルロス・ナシメント ブラジル
4 2014年5月22日 6R 2:35 KO ヘスス・アンヘル・ネリオ メキシコ
5 2014年9月5日 10R 判定3-0 アドリアン・ルナ メキシコ
6 2014年12月30日 10R 判定3-0 ジェシー・ニックロウ アメリカ合衆国
7 2015年5月1日 5R 0:38 TKO ダグラス・ダミアオ・アタイデ ブラジル
8 2015年11月7日 10R 判定3-0 ガナー・ジャクソン ニュージーランド
9 2016年1月30日 2R 2:23 KO ガストン・アレハンドロ・ベガ アルゼンチン
10 2016年5月14日 4R 2:50 TKO フェリペ・サントス・ペドロソ ブラジル
11 2016年7月23日 1R 1:52 TKO ジョージ・タドーアーニッパー アメリカ合衆国
12 2016年12月30日 3R 2:53 KO ブルーノ・サンドバル メキシコ
13 2017年5月20日 12R 判定1-2 ハッサン・ヌダム・ヌジカム フランス ミドル級王座決定戦
14 2017年10月22日 ハッサン・ヌダム・ヌジカム フランス WBA世界ミドル級タイトルマッチ
試合前
15 2018年4月15日 8R TKO エマヌエーレ・ブランダムラ イタリア 初防衛戦
16 2018年10月20日 12R 判定0-3 ロブ・ブラント 米国 2度目の防衛戦
17 2019年7月12日 2R TKO ロブ・ブラント 米国 王座奪還
18 2019年12月23日 5R TKO スティーブン・バトラー カナダ WBA防衛1度目

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